応仁の乱がグダグダと言われれる理由|世界一受けたい授業 9/30


あなたは「応仁の乱」をご存知ですか?この戦い、実はグダグダの戦いだったというのです!登場人物も多く、かなり分かりにくい。しかし、このグダグダぶりを聞くと面白くて覚えてしまうかもしれません。そんな魅力が詰まった「応仁の乱」をご紹介します。

そもそも応仁の乱のはじまりとは

日本の歴史上でかなり有名な『応仁の乱』。実はかなり複雑なことでも知られていますが、まずはその説明を。

よくこんな風に覚えませんでしたか?「ひとのよむなしい(1467年)応仁の乱」。しかし、この戦いが終わったのは1477年。なんと、戦っていた期間は11年!英雄不在、目的も不明、それも勝敗なんかも付かず、終わってしまった戦いなのです。グダグダです(笑)

この戦いは、室町時代の幕府第8代足利義政(あしかがよしまさ)の将軍家の後継者争いがメインです。義政に仕える畠山義就(はたけやまよしひろ)と畠山政長(はたけやままさなが)の2人のどちらか1人を後継ぎに選ぶことになります。そして、義政が選んだのは、政長でした。

しかし、これに納得しなかった義就は軍を率いて攻め入ることになります。本来、将軍義政が決めたことなので、普通は争いはおきないのですが、義政は長いものには巻かれろ!タイプ。それに納得がいかなかったのようです。

ここで、義政は、一度、政長に将軍を任命したが、義就が強そうだと認識。、なんと、政長から義就に任命をチェンジしたのです!

なんと、こんなことをしてしまう人が将軍だったとは・・・びっくり。畠山家の後継ぎ争いが事の発端だったんですね。

グダグダの応仁の乱は兄弟ゲンカで終わらない


実は、兄弟ゲンカの争いで終わらないのが応仁の乱なんです。だからややこしい(笑)

東軍、西軍に分かれた畠山家の二人に、幕府の2代勢力がそれぞれつくことに。それが、東軍の総帥としては【細川勝元】と西軍の総大将には、【山名宗全】です。この2人は仲が悪く、権力争いを始めたのです。

しかし、義政は、この細川と山名に戦いに関わらないよう命令します。しかし、山名はこれを無視!畠山義就と山名宗全は戦いに勝ったのです。将軍の命令に忠実に従った細川だったのですが、この結果から、評判がガタ落ち。これを機に山名にめらめらと闘志がわきます。

ここで応仁の乱が起こったと言うわけですね。

京都の街の東西に分かれたため、東軍(山中)・西軍(細川)となっています。

街中で争い!?大丈夫なのでしょうか?

応仁の乱の不思議な戦い

京都と言う街中で争いが発せしたこの「応仁の乱」ですが、ちょっと戦い方が特殊なんです。切り合ったり、大将の首をとるような一般的な合戦というものではありませんでした。

なんと、戦い方の手段と言うのが、「放火」なんです。

つまり、家などを放火し、人を追い出し、その土地を奪う。つまり、陣取り合戦のようなものだったようです。

もともと仲間で、家も近かった両者。そういうこともあってか、殺し合うという物騒な合戦を嫌ったといいます。戦死者が少ないのもうなづけますよね。あまり、人を殺すことはしたくなかったと言う点はとても人間味があって好きです。

応仁の乱がさらにグダグダに

足利義政は戦いに参加しない傍観者の将軍。どちらの軍にも力を貸さなかったわけですが、ここで、細川勝元が動き出しました。なんと、将軍に東軍に力を貸してほしいと依頼。すると、そのまま義政は東軍に。そして、さらに義政の弟である足利義視を総大将に!

これってどういう意味かわかりますか?

そうなんですよね。東軍の細川が幕府軍、西軍の山名が反乱軍ということになるわけです。うまいですね!細川勝元!

そして、これだけじゃない(笑)

応仁の乱がさらにさらにグダグダに

東軍についた足利義政。この理由が本当に情けないのです。なんと、東軍の領域に義政の家があり、東軍に囲まれていた状態であったから。つまり、自分が危険だったからです。

なんということでしょうか(笑)

すると、西軍に強い勢力が加わったことを知った、東軍総大将の足利義視が驚く行動に!

なんと、京都から逃げてしまったのです。義政も義政なら、義視も義視でした・・・。しかし、数か月後に京都に連れ戻された義視は、兄義政と兄弟ケンカ。そして、西軍の総大将になるというハチャメチャな行動をしたのです。

つまり、幕府自体も分裂したわけですね。そりゃグダグダですよ。

後継ぎ争い:(畠山義就 VS 畠山政長)
兄弟ゲンカ:(足利義政 VS 足利義視)
権力争い :(細川勝元 VS 山名宗全)

ですからね。

そして、最後は何だと思いますか?実は、続いていた戦いの中、【細川勝元】と【山名宗全】が死去。え~!! さらに、義政も、9歳の息子に将軍の座を譲り、戦う意味がほぼなくなります。
残ったのは、冒頭にお話しした畠山家の後継ぎ争いです。

しかし、これも終わりを迎えます。しかも、和解するために名乗りを上げた人物。それが義政の妻である日野富子だったのです。彼女が、兄弟の仲をとりもち、さらに西軍の大名には領地の代わりに降伏を。すると、残ったのは、畠山義就だけですよね。彼は、何もできなくなり、京都を去ったそうです。

これで応仁の乱の11年が終わったわけです。

感想

『世界一受けたい授業 グダグダだった応仁の乱』 今、こーゆーのをやるのって、民進党の人に観てもらいたいからでしょうかね?しかし、11年の先には、結局女性が全てを治めるとはなんかある意味、納得です。昔も今も変わらない。結局はそうなのかぁ~、やっぱ凄いな女性はって思ってしまいました。

公共の電波で「応仁の乱はグダグダ」っていうわかりきってはいたけど、こうもはっきり大っぴらにちょっと楽しかったです。勉強にもなり、楽しくもある。学校でも、こんな授業の仕方があってもいいのかもしれません。

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初めまして。現在、サラリーマンとして10年目を迎えました木土(もくど)と申します。4人家族(うち、1匹)の大黒柱ではありますが、日々、嫁にいじられつつ、娘も最近、私をいじりはじめた今日この頃・・・ 何卒、宜しくお願いいたします。